浜武慎
浜武 慎(はまたけ しん、1839年 –大正10年(1921年)2月27日)は、熊本藩出身の武士、のち大日本帝国海軍の将校。名は忠久、慎助とも。 藩の優秀な留学生として江戸で学び、維新後は海軍兵学少教授・艦長・浦賀屯営長などを歴任した。
生涯
濱武慎は熊本藩が設けた藩士留学制度により江戸へ遊学し、原則二か年・試験合格で二か年延長という制度のもと、慶応四年(1868年)まで在留を許された留学生であった。慶応四年、藩は全留学生に帰国を命じたが、慎助は林・本田知次郎・村上辰次の三名とともに「其儘江戸へ被残置候」とされ、特例的に帰国を免れた。いずれも藩が将来を嘱望した人材であり、引き続き江戸での学業・職務に従事したとみられる[1]。
江戸在留中には勝海舟の門下として活動し、海軍学習を深めた[2]。
維新後、明治7年(1874年)7月9日に海軍兵学少教授兼海軍少佐・従六位に任じられた[3]。
その後慎は艦長職を歴任し、明治10年代には松村淳蔵大佐の下で軍艦筑波の副艦長を務めた[4]。また、乾行については、明治10年10月31日に大村松次郎の後任艦長に就任、一度交代を経たのち明治11年(1878年)11月22日に再び艦長へ復帰した[5][6][7]。
明治14年、海軍内で起きた榎本武揚排斥運動の余波で、排斥運動に参加を持ちかけられた山本権兵衛(本人は参加していない)が突然乾行乗組免職を命じられた。山本が乾行艦長の慎を訪ねたが、慎自身も理由を知らされておらず「上からの命令」と述べたという[8]。
明治20年(1887年)4月27日、海軍大佐・濱武は督買部理事官を免ぜられ、浦賀屯営長に任命された[9]。
脚注
- ↑ 近代日本研究(1) 1985, p. 12.
- ↑ 初代鉄道助佐藤政養 1965, p. 78.
- ↑ 維新日記 第1期 第九巻, p. 122.
- ↑ 筑紫史談65 1935, p. 46.
- ↑ 薩藩海軍史(下) 1937, p. 1172.
- ↑ 海軍省報告書M6.12 1873.
- ↑ 薩藩海軍史(下) 1937, p. 1174.
- ↑ 山本権兵衛 1974, p. 92.
- ↑ 官報1887年4月27日 1887, p. 1.
- ↑ 官報1900年8月2日 1900, p. 31.
- ↑ 官報1921年3月1日 1921, p. 8.
参考文献
- 慶應義塾福沢研究センター『近代日本研究(1)』1985年。
- 佐藤政養先生銅像建立奉賛会『初代鉄道助佐藤政養』1965年。
- 『維新日記 第1期 第九巻』。
- 黒羽兵治編『薩藩海軍史(下)』薩藩海軍史刊行会、1937年。
- 海軍省『海軍省報告書』明治6年(画像45–47)。
- 『筑紫史談65』1935年。
- 『山本権兵衛』新人物往来社、1974年。
- 『官報』1887年4月27日。
- 『官報』1900年8月2日。
- 『官報』1921年3月1日。